昭和37年4月23日に工場棟から出火し、木造瓦葺きのめっき工場4棟を全焼しました。この火災で、工場の生産設備の90%を消失しましたが、幸いにも事務所とクロムめっき工場が焼失を免れました。新しい工場棟が建つまで、テント張りの小屋や自転車置き場などを作業場とし、研磨作業などを続けました。同年末には消失前とほとんど同じ大きさの工場が完成し、わずか8ヵ月で不死鳥のように立ち上がったのです。しかもこのころ、直龍は電子部品や建材の亜鉛めっきの受注情勢から、次の新天地への展開を考えていました。翌年には業務拡大のため、富山市安野屋町に富山営業所が設けられます。
昭和30~34年ごろまでの加工製品としては、バスのバンパー、紡績部品、鍋つる、馬穴持手、プラスチック成型用金型等が主要加工品でした。その後、大手メーカーから油圧用ピストン棒への硬質クロムめっきの受注があり、サージェントクロム漕5,000ℓの設備を設置し、北陸では初めて大型セレン整流器(4,000A)を導入しました。亜鉛めっきでは、ショーケース補強材が多く加工されるようになりました。
昭和34年にニッケル剥離液の開発、昭和35年に黄銅品処理液および銀剥離液の開発、昭和38年に亜鉛めっきの光沢剤の開発と、相次ぐめっき技術を研究開発により完成させます。
創業時からクロムめっきを中心に進めてきた業務も、昭和38年ごろから電子部品の受注が始まります。レベルの高い要求に対して、工程の改善や不良品の選別に、夜を徹して取り組んでいました。コンピューター製品が市場に出るようになり、ICリードフレームめっきは、昭和52年ごろから受注量が順調に伸び始めました。さらに昭和56年には北陸で初めてフープ材めっき装着を設置。昭和62年には複雑なプレス品もめっきできる片連鎖のフープ材めっきを設置し、生産能力の大幅アップが図られました。
昭和57年ごろより、コネクターピンのめっき注文をいただき、昭和58年には自動バレルめっき装置を設置し、量産への受け入れ体制が図られます。トランジスターリードフレームめっきや、角形チップ固定抵抗器のめっき、ダイオードのめっき技術の開発が行われました。またICリードフレーム表面処理液の開発、ICリードフレーム樹脂バリ取り方法の開発、角形チップ固定抵抗器めっき用ダミー選別機の開発などが行われ、生産設備の増設がつづきました。
昭和54年、会社の経営安定化と業務拡大が実現されていく中で、創立35周年記念式典が行われる。さらに事務所と工場の増築工事の完了した昭和60年、40周年記念式典が挙行された。
新湊工場では、5基のめっき自動ラインが設置され、予定されていた生産設備計画が完了します。従来のチップ固定抵抗器はメルフ形が主流でしたが、基板上への装着性が容易なことや電子部品の小型化の進行が相まって、次第に角形に移行し、大幅な伸びをみせます。
さらに新湊工場の排水処理装置は、最新の技術を取り入れBOD、COD等の生活環境についての項目を、県の上乗せ基準の1/2以下をクリアできる設備を設置するよう要請されていました。そこで、微生物による接触酸化処理層を設置することにします。
手電気メーカーや電子部品メーカーからのQCパトロールでの指摘は、全社的組織の中で品質保証体型を構築せねばならぬということでした。そこで平成元年からTQC推進委員会を発足させ、試行錯誤を繰り返してきました。平成3年3月に銀めっき製品の受注をするにあたって、関西大手家電メーカーの工場認定が必要となりました。認定には6ヵ月近くもかかったのですが、このような認定過程で当社の品質保証体制がさらに強化されたのです。ダイオード電極めっき工程や角板形チップ固定抵抗器の品質システムの監査など、相次ぐ外国企業からの監査にも対応しています。
中小企業といえどもISO9000シリーズの審査に合格する品質レベルにないと世間には通用しません。価格さえ満足できれば、世界のどの企業もお得意様にできるのです。当社が21世紀に向けて更に飛躍するには、県内のユーザー受注を拡大するとともに、県外への営業活動の強化が必要です。電子部品のサイズは短小軽薄になり、その生産技術はミクロン、サブミクロン単位です。不良率もPPBで論議されるようになりました。会話の中でも、信頼性工学や品質工学の用語が日常的に使われています。環境関係についても、ISO規格が制定され企業の遵守事項となるのも近いでしょう。
今後は管理技術と共に、我々自身の固有技術であるめっきを大切にし、当社独自のめっき技術を創造し、北陸の高岡に優秀なめっき工場があると言われるような企業を目指して進んでいきたいと考えています。
立山電化工業株式会社
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